リーバーマンにオーボエを教わりに来た生徒は皆、遅かれ早かれ山歩き(Wanderung)に連れて行かれます。

日本人がイメージするハイキングとは趣が違い、最低3時間はずんずん歩き続けます。足腰が丈夫に鍛えられていて、体中に血液が循環して内側からきれいになり健康な状態であることが、良い音の秘訣なんだそうです。

リーバーマンから教えを受けるために日本から留学する際には、まず音楽大学入試準備のため個人レッスンに通うことになり、ときどきレッスン終了後に、山歩きもしっかりカリキュラムに組み込まれています。当時のハイデルベルクのご自宅の周りには300メートル級の山がいくつも連なり、そこを登ったり下りたりするのですが、途中で音を上げない日本人はまずいません。疲れたとか、冬は寒いとか......。先生と小一時間気軽な散歩かと思ったら大違いですからね。私も習いたての頃、「最近ちゃんと山歩きをしているかね?」と聞かれたので、「実は山の中でクマが出るんじゃないかと思うと、怖くて行けません。」と答えたところ、ご夫人とともに腹を抱えて大笑いされ、いまだに25年前のそのことでからかわれます。

今でも教えを守り、ベルリンで実践していますよ。効果は絶大です。足腰の頑丈な台の上に、楽器を構えた上半身が安定して載っている感覚。体全体が活性化して、体温も上がるような気もします。体から自分が意識する以上のエネルギーがいつも自然に湧き出していて、音も表現もポーンと飛び出してくる状態は、演奏するためにとても大切だと思います。呼吸筋など毎日かなり体を使っているとはいっても、スポーツの運動量にはやはり全くかないません。

お弟子さんの一人、ハンブルク州立歌劇場首席オーボエ奏者のトーマス・ローデは、それをさらに発展させて、なんとボディービルディングに励んでいるというではありませんか。

リーバーマンは、現在78歳。年齢なりに少々お医者さんのお世話になっているとはいえ、ピンと伸びた姿勢、引き締まったしっかりとした足腰は、週に最低2回はこなす山歩きによるところが大きいのでしょう。

 リーバーマン門下に限らず、ドイツ人は一概に、自然回帰主義の影響からか、山歩きが大好きです。山道も非常によく整備されていて、山歩きのための地図やガイドブックなど、多数出版されています。とにかく歩くことが目的ですから、バナナなどのオヤツを持参することはあっても、ゆっくり腰掛けて休憩を取ることなどせずに、ひたすら歩き続けます。

以前住んでいたハイデルベルク、ヴッパータール、カールスルーエには、山歩きできる場所がたくさんあったのですが、私が住んでいる西ベルリンには一箇所しかありません。その名もトイフェルスベルク。何と、処理に困った第二次大戦空襲後のベルリン中のがれきをトラックを何百台も投入して集め、積み上げたうえに土を盛り固めさらに植樹したという、高さ120メートルの人工の山です。

 1936年ベルリンオリンピックが行われたオリンピックスタジアムに自転車を停め、トイフェルスベルクに登りその反対側に下り、ベルリンのはずれであるヴァンゼーまで続くグルーネヴァルトを、緩い起伏に富んだ遊歩道に沿って大まわりした後、再度トイフェルスベルクに登りオリンピックスタジアム終点、という3時間強のコースです。500ミリリットルのペットボトル入りの水を携えて......。

 

こんな美しいところを歩いています。今年最後の溢れる緑、まさに目の保養。緑の季節は5月から9月まででおしまい、これから10月の美しく赤い落ち葉のじゅうたんの時期が訪れます。

 丁度この時期ボコンボコンと落下してくる、カスタニエ(Kastanie:トチ)の実。木になっているときは、黄緑色のイガに包まれています。

 

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11月から4月までの寒くて長い冬は、低く垂れこめた雲と枯れ枝のみの、まさに荒涼とした灰色の世界。ベルリンではそんなに雪は積もりませんが、冬は一日中マイナス10度なんていうのはざらですから、一度降るとなかなか溶けません。ペットボトルの飲み水も、3時間の間に凍ります。

 さて、私にとりまして山歩きは、同時に森の音楽会でもあります。ポータブルCDプレーヤーをポケットの中でかけ、聴きながら歩きます。勉強のために聴かなくてはならないCDが山積みになっているのですが、家にいると練習したり雑用に振り回されたり聞く時間がほとんど取れません。四季の自然の風景をめでながら、アルブレヒト・マイヤーなどの若手オーボエ奏者の最新スタイルによる新譜CD、ハインツ・ノルトブルッフなどの往年の名オーボエ奏者の貴重な黄金の録音、そしてフルトヴェングラー・ベルリンフィルの史上最高の名演を、じっくり聴けます。長時間歩く疲れも全く感じずに、時には感動のあまり涙しながら......。

往年の名オーボエ奏者やフルトヴェングラーや作曲家が生きた時代も、森の中は今とほとんど同じだったんですからね。

 名演奏を聴いた後しばし耳を休めると、森を吹き抜ける風の音しか聞こえてこなかったりして、頭の中をすっかり空っぽにできます。そういうときに、今練習しているソロ作品のテンポや表現方法を、こういう風にしたら凄いのではないか、と突然閃いたりして、インスピレーションを育むとっても貴重な時間です。こんな贅沢が他にあるでしょうか?

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PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。