私がピアニストのシプリアン・カツァリス(Cyprien Katsaris)を初めて聞いたのは、芸大1年の198510月、フランツ・リスト作曲の「ハンガリー幻想曲」です。詩的な美しさと、ものすごい完璧な超絶技巧に、大変驚きました。

 それですぐさま、この年にリリースされた『グリーグ作品集』(「ペールギュント」より〈朝〉、「叙情小曲集」、「ホルベルク組曲」、「ノルウェー舞曲第2番」)を芸大の生協で買い、何百回も聴きました。今は消えてしまった、Teldecというドイツの名門レーベルです。

 それから何年も経ち、カツァリスがほとんど定期公演のように頻繁にソリストとして登場するソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクに私も参加し始めましたので、幸いにも何度も生演奏に接することができるようになりました。今までにベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲第3番」、フランツ・シューベルト作曲/フランツ・リスト編曲「さすらい人幻想曲」、フランツ・リスト作曲「ピアノ協奏曲第2番」などを協演しています。

 

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Ⓒ Willy de Jong 

 

 親日家としても知られるカツァリスは、90年代にNHK教育テレビ「ショパンを弾く」の講師を務めていたそうですね。非の打ちどころのない完璧な技術に裏打ちされた抜群の安定感、思わず引き込まれずにはいられない、なんとまあ美しい音楽表現でしょう! どんな細部に至るまでどんな細かい1音までも全て磨き抜かれ、完璧なバランスを伴い充実したストーリーを展開します。

 オーケストラで演奏されるけれども元の原曲はピアノ独奏曲であったり、リストなどがオーケストラ作品をピアノ独奏用に編曲したものなども、非常に意欲的に取り上げています。このような作品を演奏する場合、オーケストラ演奏とは違うピアノの特質を駆使した独自の世界を描き出すピアニストが多い中、カツァリスはオーケストラの演奏に真正面から四つに組んで向きあいます。どの録音も、正に最優秀のオーケストラ演奏のように聞こえると言わざるを得ません。

 さて、201348日ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクのコンサートでは、メンデルスゾーン作曲「ピアノ協奏曲第1番」を演奏しました。

 どこのオーケストラでも大抵、ソリストは前日にやってきて初リハーサル、コンサート当日ゲネプロ、本番となります。その前日リハーサルも、楽員が誰も演奏したことがないようなマイナーな作品でもなければ、一回通した後にダメ出しをする程度で、二回も通すことはありません。少ない時間で集中して仕上げなくてはならないのは、協奏曲の宿命でしょう。

 4718時からのリハーサル中に、ベルリン自宅からリュックサックの中に忍ばせてきた『グリーグ作品集』のCDを出し、隣の首席フルートのイムレ・コヴァーチ(Imre Kovács )の譜面台に載せます。すると、「ええっ、これがあのおっさんと同一人物だって!?」とビックリされてしまいました。なにしろ30年近く前の写真ですからね。

 イムレ・コヴァーチ通称イミー(Imi)は、小林研一郎さんが1987年から1997年まで音楽監督をなさっていたハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団(Magyar Nemzeti Filharmonikus Zenekar)の、首席フルート奏者です。このオーケストラの団員が何人もソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクで演奏していますが、皆、口を揃えて、「ケンイチロウ・コバヤシはザ・ベスト・ハンガリアン・コンダクターだ」と言います。オッと、ハンガリー人指揮者になっちゃいましたね。そのくらい愛されていたんです。

 20036月、私は、ハンガリー放送交響楽団(Magyar Rádió Szimfonikusok)に、モーツァルトの「オーボエ協奏曲」を演奏しに参りました。一度行ってみたかったブダペストまで来ましたので、早速イミーに電話してみようと思いました。ホテルの電話帳をめくりImre Kovácsの電話番号を探そうとして、仰天。なんと3ページにわたって、Imre Kovácsだらけ! 歴史的重要人物の名前ということで、いまだに人気のある名前らしいです。

 このルクセンブルクでのコンサートでは、実はもう1曲、JS.バッハ作曲「ピアノ協奏曲第3BWV1054」も演奏されることになっていて、両作品のリハーサル間に休憩をはさみました。そこで、カツァリスのところへ、先程のCDにサインをしてもらいに行きます。もう何度もお目にかかっていますので、私のことを憶えてくれているのです。毎回サインをお願いしようと思いながらCDをうちにおいてきてしまって果たせずにいましたけど、今日は持ってきましたよ、と申し上げ、渡しました。ドイツ語は駄目なようで、いつもながら誰が教えたのかユーモラスな日本語をはさみ、英語で談笑しながらサインしてくれました。

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For my friend Katsuya, Luxembourg 07 Ⅳ 2013


 どうもありがとうございました、と申し上げましたら、「ドレミファソラシどういたしまして!」とまた変な日本語!

 さて、8日のコンサートではお客様も楽員も大満足。アンコールでは、こんなことがありました。皆さん、今からアンコールで弾くこのメロディー、誰が作曲したものでしょう? 当てた方にはこの作品が収録されたCDを差し上げます。聞いてみると、ううん、ドイツロマン派っぽいメロディーですねえ。オーソドックスながら美しい和音進行。ブラームスか、シューマンか? 会場から、そんなような声が上がります。答えはノー。シューベルト、ヴェーバー、ブルッフ、フーゴ・ヴォルフ、もう誰も答えられません。正解は......哲学者のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェでした。ヴァーグナーとも親交が深かったそうです。立派な一流の音楽でした。天才、恐るべし!

PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。