37日、パリ経由エールフランスでベルリンに帰る際に、成田空港のゲートで朝日新聞が配られました。何回往復しても、最後の日本の新聞はありがたいです。インターネットがなかったころは、機内で読んだあとの新聞を、ベルリンに着いた後に日本人の友人の間で1ヶ月にわたり回し読みしたものです。ヨーロッパから日本行きの機内ではそれこそ1年ぶりの日本の情報ですから、涙を流しながら隅から隅まで読みました。さすがに今は、そんなことはありませんけれど。

 さて、この新聞には、「不発弾 ドイツの日常」「第2次世界大戦で地中に今も10万発(ベルリンには3000発)」という記事が、大きく取り上げられていました。大変物騒な話ですが、ドイツに住んでいますと、ごく日常的なことです。不発弾の発見をニュースで聞いても「ああ、またか」と思うだけですし、よほどの巨大爆弾でもない限り、ニュースとして取り上げられさえしないのではないでしょうか。

 2次世界大戦における空襲で投下された通常爆弾(原子爆弾を除く)の量は、日本16万トン、ドイツ136万トンと8.5倍の開きがあり、イギリスとアメリカによる憎きナチス・ドイツへの空襲がいかに熾烈を極めていたかが、明らかでしょう。

 想像するのも難しいことですが、何百kg、大きいものでは5tもある爆弾が、7000mを超えるような高度から落ちてくると、スピードが増し、信管が接触して反応するより先に、まずその勢いのまま建物や地面に深くめり込み、次の瞬間に爆発するのだそうです。その爆弾のうち約15%が、不発のまま地中などに残ります。

 非常に稀に、70年たったある日、工事の振動や温度変化などがきっかけで信管のスイッチが入り、爆発し人的被害が及ぶこともあります。

 ほとんどの場合、そうなる前に発見され安全に処理されます。その際には、半径何百メートルにもわたり避難命令が出され、大騒ぎになります。これまで、私が住んでいた近所で不発弾が発見されるという目に遭ったことは、ありません。しかし、鉄道で移動中に影響を受けたことは何度もあります。

 日本の路線にたとえて、茨城県日立から上野まで、特急スーパーひたちに乗り向かっているとしましょう。水戸の辺りで突然放送が入ります。「本日、葛飾区の常磐線沿線で、不発弾が発見されました。不発弾処理のため、この区間は本日運転をとり止めております。その影響でこの列車は、この先、水戸線から小山、大宮を経由して上野に向かうルートに変更いたします。そのため、本日は終点上野に1時間遅れて到着いたします。お客様にはお急ぎのところ不便をおかけし、申し訳ございません」。

 鉄道路線が網の目のように国土を覆うドイツでは、他にも様々な理由により、このような迂回措置がとられます。もちろん車内に一旦は悲鳴があがりますが、この国では鉄道の遅延がものすごく多く、旅程にかなりの時間的余裕を持たせるのが普通ですから、皆さんすぐに諦めます。その結果、水戸線のような単線のローカル線にドイツの新幹線ICE(イーツェーエー)が速度を落として出現(ドイツの鉄道ではローカル線も新幹線も同じ標準軌の線路を走るため可能)、なんていうことも、珍しくありません。

 しかしながら、仕事でオペラやコンサートの本番に向かっている途中ですと、それは慌てるでしょう。とある友人から、余裕をもって本番の2時間も前に着くように出発したのに、乗っていた列車が大きく迂回したため遅れに遅れて、到着駅から全力で走ってオーケストラピットに座った瞬間に、当夜の演目「魔弾の射手」の最初の音が鳴りだした、なんていう話も聞きました。

 私が初めてベルリンにやってきた1991年の晩秋、その当時はツォー(Zoologischer Garten)駅が終点で、ベルリンの西からの玄関口でした。列車がまさに停車しようとする間際に窓から見えるのが、有名なカイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche)です。


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現在修復中のため、上半分しか見えません。 

 

 写真で見慣れているとはいえ、いきなり到着と同時に大きな実物を見せられると、さすがに驚かざるを得ません。19431123日の夜間空襲で破壊されたこの教会は、悲惨な戦争の記憶を風化させないため、その当時のまま保存されています。手前の黒い格子の塔は、戦後に建てられた現在の鐘楼、同じ模様の右奥の建物が礼拝堂です。

 19世紀末の第2次産業革命により飛躍的発展を遂げたドイツは、1900年ころに、市街地の住宅が一斉に近代的に建て替えられるという、空前絶後の建設ラッシュを迎えました。ベルリン市街に当時建てられた典型的な住宅は、こんな感じです。

 

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 これ、ごく普通の庶民が住む住宅です。

古い戦前の写真を見ると、ドイツはどこもこうだったんですよ。


 どの住宅も、ベルリン市で22mと定められている軒高最上限まで建てた結果、必然的に似たような建物になったのでしょう。建物同士すき間なくくっついていまして、火災時に延焼しないよう、境に防火壁の設置が義務付けられています。

 このような素敵な住宅も、空襲と194558日敗戦直前のソ連軍との市街戦で、壊滅的被害を受けました。ところどころで、建物の並びが窓もない防火壁で突然終わっているのを見かけますが、隣の建物が破壊された結果そうなったものがほとんどだそうです。すぐ隣近所で、否が応にも戦争の爪痕を感じずにはいられません。

 たとえばこの住宅、通りから向かって右側は元々の建物の終わりで、このようになっています。

 

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 ところが左側は、このように窓もない防火壁で突然終わって、隣の敷地は、取ってつけたような子供の遊び場になっています。

 

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おっと、柵に立て掛けてある私の愛車も写ってしまいました。

 

 この建物は、上から見るとコの字形をしています。多分逆コの字形をしていた建物と防火壁を隔てて対になりくっついていて、建物に囲まれた中庭があったのでしょう。

 のっぺらぼうの防火壁では殺風景なので、こんなふうに絵を描いて、アートに仕立てられることも多いです。

 

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この街路樹、植物にお詳しい方は驚かれるでしょう。イチョウです。

 

 ベルリンにおける第2次世界大戦施設跡は、枚挙にいとまがありません。ベルリンの北の郊外に、オラニエンブルク(Oranienburg)という小都市があります。国電の終点駅で、人口は5万人足らず。ここには、ナチ時代のザクセンハウゼン強制収容所跡があります。ナチスの犯罪は、愛するドイツに外国人として住む日本人に必ず一度は立ちはだかる、最重要テーマです。

 ベルリンの南西の郊外には、ポツダム宣言が採択されたポツダム市があります。日本人にとりまして「ポツダム」という名前には運命的な響きがあり、灰色でどんなに冷たい雰囲気の街なんだろうと想像しておりました。行ってみてビックリ。サンスーシ宮殿をはじめ世界遺産がいくつも散らばり、とても美しい街です。緑と湖も豊かな、休暇旅行にうってつけの街、とも言えましょう。最近では、ベルリンまで悠々と仕事に通うセレブ層に大変人気があり、家賃も急騰しました。東京近辺で言うと、鎌倉や葉山のようなところでしょうか。

 ポツダム会談は、1945717日から82日にかけて、湖のほとりの緑に囲まれた木組みのツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloss Cecilienhof)で開かれました。敗戦国ドイツの占領統治、またドイツからどのような方法でどれだけ賠償を獲得(主に現物を接収)するかなどについて、チャーチル、スターリン、トルーマンが、激しい応酬を繰り返したのです。

 ポツダム会談中に、トルーマンはアメリカ本国より原爆実験の成功の報を秘密裏に受け取り、あの日本への原爆投下命令を承諾しました。また、私の父方の親戚が大勢終戦時に住んでいた南樺太にできる限り速やかに侵攻するよう、ソ連の対日本参戦の確約が取られたのです。私の祖父はシベリアに抑留されました。

 こんな平和な場所で、いくつもの恐ろしい決断が下されたのですね。ここに来るたび、私はその凄まじい対比に、怒りのあまり頭に血が上らざるをえません。アメリカやソ連がどうだということではなく、人間というのはこんなのどかな環境においてもここまで残酷になれるのだ、と。

 普段こんなに礼儀正しく柔和な日本人が、どうして欧米人捕虜に対してあんなに残忍な虐待をして死に至らしめたのか、どうにも理解できない、とヨーロッパ人は思っています。残酷なのは、日本人も例外ではありません。

 2つの世界大戦があって、その反省のもとに今日の世界平和が成り立っている、という考え方があります。残虐な闘争本能を備えた人類が進化する過程で賢くなり、20世紀にやっと闘争本能をコントロールし、戦争ではなく別の手段で政治問題を解決することを覚えた、と信じたいです。しかしながら、本当に2つの世界大戦を経て8000万人もの尊い命と引き換えにしなければ、人類が今日の平和を手にすることはできなかったのでしょうか。

 ヨーロッパ内で事実上国境が解放されたように、今後100年、世界中で国境の意味が次第に薄くなっていくような気がしてなりません。成熟した人類世界にとりまして、100年後にはなくなっているかもしれない国境を命を懸けてまで変更し、国土を拡大しようとするのは、もうよいのではないでしょうか。今では全く考えられないことですが、500年前はまだ、関東地方と甲信地方が領地をめぐって戦争していたのですからね。

 今日ドイツの若い世代は、ドイツとこんなに仲が良いイギリスやフランスやアメリカを相手に激しい戦争をしていたことを親や学校の歴史で詳しく教わっても、どうしてそんな不毛なことを防げなかったのか不思議で仕方がないことでしょう。それなのに、ドイツの不発弾処理は、まだ15年から30年も続くそうです。2044年までかかるとすると、なんと空襲があってから100年も経っているではありませんか! これは馬鹿げたことである、と思う心が大切です。

PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。