ヨーロッパで紅茶を淹れますと、日本のようにきれいに完全に透明にはならず、微妙に濁り気味になります。味も、少し鈍い感じでしょうかね。20分もすると、紅茶の表面に、紅茶より少し濃い色のごく薄い膜が張り始めます。油のような液体でもなく、掬おうとするとホロホロと崩れてしまい......

 コーヒーの場合は膜こそ張らないものの、やはり濁った重い感じの味になります。日本茶を緑色に淹れるのは至難の業で、たいてい黄色っぽくなってしまい香りが立ちません。洗濯物はゴワゴワになり、お米はパサパサに炊き上がり、日本人女性はお肌がガサガサに髪がバサバサになると嘆きます。

 これらはすべて、水にカルシウムやマグネシウム等のミネラルが多く含まれている、つまり硬水だからです。ちなみに日本では、沖縄などを除きほぼ全国的に軟水です。

 軟水の雨が降るところまでは、日本でもヨーロッパでも違いはありません。日本の場合、雨水が地下水脈に達する過程で、火山岩地質の目の粗い地層をあっという間にしみ込んでいくのに対し、ヨーロッパでは、カルシウムやマグネシウムを多く含む石灰岩地質の密度の高い地層をゆっくりとしみ込んでいくので、ミネラルがたくさん溶け込んだ硬水になります。川の水は、降水量の多い季節には雨水の割合が高くなり、硬度が低くなる傾向があります。そうであっても、日本の川の傾斜が大きくあっという間に海に流れ去ってしまうのに対し、ヨーロッパの川の傾斜は小さく、石灰岩地質の大地をゆっくりと流れてミネラルを取り込んでいきます。大本は、大地の地質の違いなのですね。

 ドイツ最北東の、リューゲン(Rügen)という風光明媚な島、この海岸沿いには、チョーク状の石灰岩で出来た岸壁(Kreidefelsen)が有名な、ケーニッヒスシュトゥール(Königsstuhl:直訳すると王様の椅子)という景勝地がございます。

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Insel Rügen


 ヨーロッパの地面の下には、こういう地層がたくさん埋まっているのでしょうね。

 リーバーマン先生に教えを受けるために住んでいた、マンハイムの家賃3万円ほどの半地下の部屋には、洗面台の下に電気湯沸かし器が設置されていました。容量が7リットルほどしかありませんで、これで一度沸かして、台所の流しも兼ねていたここでお湯を使用しているうちに、どんどん温度が下がってしまう、という代物です。ある日、スイッチを入れましたら、その瞬間にブレーカーが落ちました。正確には、旧式の栓型ヒューズが飛んだのです。電気技師だった階上のおじいさんが来てヒューズを交換してくれましたのに、通電した途端にまた飛ぶではありませんか。さすが専門家、すぐに抵抗器を使って電気湯沸かし器を調べたところ、水に含まれるミネラルが電熱ヒーター部分に白く析出し、何年分もビッシリと張り付き、故障していたことがわかりました。

 この析出したミネラル、カルク(Kalk:カルキ、石灰)と呼ばれています。日本で「水道水のカルキ臭が......」という言い方が習慣としてありますが、この場合のカルキ臭は、正確には水道水の消毒目的に添加する塩素と、トリクロラミン(またはトリクロロアミン)に代表される水中のアンモニアと塩素が反応して生成された成分などによるもので、実は本来カルキという名詞が意味するのとは別物です。

 このカルク、硬水を60℃以上に加熱するところに必ず析出し、なかなか厄介者です。電気ケトルや洗濯機や食器洗い機の電熱ヒーター部分、詰まったシャワーヘッドの穴など、たまに手入れをしてやらないといけません。市販の粉末クエン酸(Zitronensäure:レモンなど柑橘類に多く含まれる酸を他の原料から工業的に生成したもの)や安い酢を、対象物や状況に合わせて薄め浸してやりますと、シュワシュワと泡を吹きながらカルクが溶けていきます。

 とあるオーケストラの演奏旅行で、ホテルの朝食を摂った際のことです。私は結構早起きで一番乗り、他のメンバーはまだ誰もいません。大きな湯沸かしポットに沸いていたお湯で、ダージリンを淹れます。缶に入っているダージリンの茶葉を自分で取るようになっていまして、ズルして白い葉(シルバーチップ)をたくさん入れました。さぞかし至福の紅茶となったことでしょう。そして、一すすり口に含んだところで......、あまりの酸っぱさにびっくりしました。レモンティーを淹れたのではないのに、尋常ではない酸っぱさ。試しにお湯だけ飲んでみると、強烈に酸っぱいレモネード。すぐにボーイさんに知らせます。前夜に湯沸かしポットのカルクをクエン酸で溶かしてあったのをうっかり忘れて、今朝そのまま沸かしてしまったんですね。コラッ!「お詫びに何かお持ちいたしましょうか?」と訊かれたので、「昨晩に栓を抜いたゼクト(Sekt:ドイツのシャンパン)の残りでいいから、もしあったら一杯......」と申し上げましたら、本当に出てきました。

  硬水で洗濯をする場合、石鹸の泡立ちが悪かったり、洗剤の効き目が薄くなったりもします。洗剤の袋には、その土地の水の硬度によりどのくらいの量が必要になるか、一覧表が印刷されています。

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 住んでいる土地の水の硬度は、水道局に問い合わせると教えてくれます。マドリッド、ヴォルヴィック、イギリスの一部などが軟水であることを除くと、ヨーロッパはどこもたいてい硬水のようです。ちなみに私が今まで住んでいた土地は、ベルリン17.50°dH硬水、カールスルーエ18.00°dH硬水、ヴッパータール13.20°dH中硬水、マンハイム17.72°dH硬水、ハイデルベルク17.50°dH硬水、ハンブルク11.00°dH中硬水、場所によって様々と言わざるを得ません。ルクセンブルクはいくつかの水源から水を引いていて、団員が宿泊するホテルがある中心部は、19.20°dHですね。

 ルクセンブルクの水はものすごい硬水なので、我々は骨や歯が丈夫なんだ、とルクセンブルク人は自慢げです。日本人がカルシウム不足なのも、硬水でないのが原因のひとつだそうですね。私はよく就寝中にふくらはぎがつり、これが特に日本にいる時に頻繁に起こります。健康診断の際ドイツの医者に相談しましたら、マグネシウムの錠剤を処方され、ふくらはぎがつると、マグネシウム不足の信号と捉え服用するようにしています。こう考えると、カルクは体にとって大切な栄養分なんですね。水だけでなく、ミネラルたっぷりの大地で育つ野菜にもカルシウムやマグネシウムが豊富に含まれています。感謝しなければなりません。

 カールスルーエに住み始めた頃、水の硬度を知りたかったので、市の水道局に電話で問い合わせました。熱血漢と思しき職員が、こう語ってくれました。「カールスルーエの水道水は超硬水ですが、安心してお飲みいただけます。水道水は、市販のミネラルウォーターのよりも厳しく法律で定められた基準で、毎日検査しているからです。それでいながら、値段はミネラルウォーターの500分の1。それから、硬水は体に良いんだよ。よく軟水にするために活性炭入りフィルターで濾す人がいるけど、あのフィルターって結構雑菌が溜まりやすくってね。折角の栄養のミネラルを取り去って、バクテリアを添加している、愚かな行為ですな」。まあ、ミネラルウォーター・メーカー、フィルター・メーカーは、「美味しい水」というまた別の付加価値を売りにしているのでしょう。

 とはいえ、イギリスは硬水だから紅茶が美味しい、というご意見すらあるようです。確かに硬水の国の基準で観察しますと、日本で紅茶を淹れると、ヨーロッパの硬水で淹れるとそれほど溶けださないタンニンによる渋味が強調されます。同じコーヒー豆を日本で淹れると、ヨーロッパで淹れるより酸味と渋味が抽出されまろやかさが薄れます。

 日本に到着した日にシャワーを浴びると、皮膚の脂が全部、ともすれば本当は最小限必要な皮脂までもが洗い流されてしまったような気分になりますし、水道水を飲めば、喉越しにキレがあるのはいいんですけど、食道を粘膜もろとも洗い流して、体の隅々まで滲みわたるイメージでしょうか。何でも溶かしてしまう液体のようで、軟水にはわずかながら恐ろしさのようなものを感じます。

 硬水も軟水も、長所あり短所あり、といったところでしょうか。

 硬水はダイエットに効く、なんていう説もありますが、ヨーロッパ人の体型を見る限り、明らかにそれは間違った情報でしょう。ただ、硬水に慣れない人がいきなり大量に飲むと、お腹を壊すみたいです。もちろんヨーロッパ人は、世の中に軟水という水があるということを知りつつ、硬水の水道水を普通に飲んで生活しています。

 ヨーロッパ人はミネラルウォーター(こちらも硬水)しか飲まない、というのも俗説と言わざるを得ません。ドイツのミネラルウォーターは、炭酸ガス入りが主流です。その多くは、圧力をかけ炭酸ガスを注入して生産されている一方、ゲロルシュタイナー(Gerolsteiner)のように、実際に炭酸ガス入りミネラルウォーターが自然界の地底に存在する土地もあります。炭酸ガス無しが主流のフランスなどの影響で、最近は炭酸ガスが少なめのもの(ゲロルシュタイナーの場合、湧いてきた炭酸水からわざわざ炭酸を抜いている)や炭酸ガス無しのものも手軽に入手できるようになりました。大陸特有の乾燥した空気のせいかやたらと喉が渇くので、ドイツ人は、1.5リットルの巨大なペットボトル入りミネラルウォーターを持ち歩き、豪快にラッパ飲みします。

 家庭で水道水に炭酸ガスを注入する装置、というのも人気です。出来上がった炭酸水にオプションの濃縮液を添加し、コーラやジンジャーエールなども楽しめます。いつかビールやシャンパンの濃縮液も開発されることを、願ってやみません。

 水道に関して余談です。大都市の中心部の地下には、水の水道管と並んで、お湯の水道管も敷設されています。町はずれに火力発電所(Heizkraftwerk:電気だけではなくお湯も供給する)があり、ここで余熱もフル活用して80℃から105℃に温められたお湯が、各家庭に60℃程度で到着し、実際に蛇口からは約50℃のお湯が出てくるようになっています。セントラルヒーティングにも利用されます。住宅密集地に限って言うと、各家庭ごとに電気ボイラーや瞬間ガス湯沸かし器で水からお湯を沸かすより、エネルギー効率が優れているそうです。

 うちから300メートルの所にあるシュプレー(Spree)川沿いの火力発電所は、今は建てかえられ新型ですが、その初代は120年前に稼働し、100年前にベルリンで初めてお湯を送り始めたんですって。

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シュプレー(Spree)川沿いの

シャーロッテンブルク火力発電所

Heizkraftwerk Charlottenburg、新棟

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上の写真の右奥側から撮影。手前が往時の旧棟の一部。 

PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。