ドイツに来たばかりの留学生も海外赴任者も、どうにかして電気炊飯器とジャポニカ米を手配すると、次は肉を醤油で味付けして焼いてみようか、ということになります。ドイツは豚肉の国ですし、しょうがも砂糖漬けとして知られていて、スーパーで生のものが入手可能、めでたく豚のしょうが焼きができるのです。ご飯を炊き即席みそ汁でも添えてしょうが焼き定食とすれば、慣れない海外生活もひと山越えたような気分になるでしょう。

 日本よりだいぶ遅れて、最近ではドイツのスーパーでもパック入りの肉が売られるようになりましたが、それまでは、町のどこにでもあった肉屋かスーパー内の肉売り場での量り売りが中心、順番が来ると「挽き肉300gと、ハムの薄切り各種取り混ぜて150g、ビテッ」のように注文する以外方法がありませんでした。肉の種類のドイツ語がわからず口ごもったりもたもたしていると、次に並んでいる人に迷惑そうな顔をされてしまいます。そこで順番が来るまで注文内容を何度もブツブツと反芻していましたから、ドイツ語の良い練習にもなりました。

 さて、反芻しながらショーケースの中から豚の薄切り肉を探しますが――何ということでしょう、どこにもありません。ステーキ用、シュニッツェル用の10ミリくらいの厚切りは目に入るものの、他には、2キロはありそうな大きな塊や、1辺が3センチくらいあるサイコロ状のシチュー用、その姿のまま塊のレバーや、塩漬け燻製豚肉などの見たこともない加工品が多数......。塩漬け燻製豚肉はカッスラー(Kassler)といいまして、これはこれでとても美味しいんですが、それがわかるのもまだ先のこと......。とにかく、日本で見慣れた景色とは若干違うようです。

 目標の豚の薄切り肉が見当たらず面食らったまま順番が回ってきてしまい、咄嗟に口走るのが「挽き肉300g、ビテッ」、しょうが焼き定食の夢ははかなくも破れ、挽き肉野菜炒め定食になってしまいました。

 この写真のような薄切り肉パックが当たり前のように並んでいる日本の肉売り場の光景、ドイツではまずお目にかかれません。

 

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 そのうちに、大きな塊を買ってきて、包丁で薄切りにするようになりました。ぐにゃぐにゃする肉を包丁で薄切りにするのは容易ならず、とても均等には切れません。そのため、食感も理想からは程遠いモノでした。

 ヴッパータールでは、駅前のそこそこ高級な肉屋で肉を薄く切ってくれる、との情報を聞きつけました。肉屋には大抵、大きな塊肉からお客が希望する大きさに切るための頑丈な電動スライサーが、置かれています。そこの店員のお姉さんは日本人がそう希望することを心得ていて、果たせるかな、確かにその場で薄く切ってくれました。まあ、それでも日本の薄切り肉の2倍くらいの厚さでしょうか。しかもその肉の間に丁寧に1枚ずつ、水をはじく紙を挟んでくれるんですねえ。それで私が、しつっこくもっと薄くもっと薄く、と要求するので、お姉さん、「これくらいでいい? ええっ、もっと薄く? ぐちゃぐちゃに崩れちゃうわよ」などと言います。崩れちゃってかまいません。

 私が渡独するよりずっと前、東西分断時代にベルリンのマックス・プランク分子遺伝学研究所にいらっしゃった廣川秀夫先生(上智大学名誉教授)は、ベルリンの肉屋ですき焼き用の牛肉を入手される際に、「Bitte schneiden Sie das Fleisch wie Papier aber ohne Papier.(肉を紙のように薄く切ってください、ただし紙なしでお願いします)」とおっしゃられていたそうです。さすが! 私のようにただぎゃんぎゃん要求するのではなく、このようなユーモアを絡める術、素晴らしいですね。

 この廣川秀夫先生からは、人生の考え方が変わるようなお言葉を頂戴いたしました。「DNAは、今までに一度も死んでいない」。

 我々の遺伝子DNAは、原子生命体から進化していった数多くの生物の体を乗り換え、いつかその種は死に絶えることがあっても、DNAそのものは何十億年ものあいだ一度も死なずに生き続けてきました。人間という種も、DNAが乗り換える電車みたいなものなのですね。人間の後には、DNAは一体どんな種に乗り換えるんでしょう?

 さて、肉の話に戻して――薄切り肉類の食感や美味しさっていうのは、すごく魅力的だと思うんです。すき焼き肉、鍋、焼き肉、お好み焼きにひらっと載っている豚バラの薄切り。サンドウィッチのハムも、厚切りが1枚よりも超薄切りが何枚も挟まれているのが好きです。サンドウィッチのチーズでもそうですね。

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 肉を日本人の希望に沿って薄く切ってくれるありがたい肉屋でしたが、手間をかけて薄く切っても塊のままと値段は変わりません。薄切り肉の魅力を知らないお姉さんは、「こんなに薄く切って、一体何の意味があるの?」と内心思っているでしょうから、次第に申し訳なくなってきました。

 ヴッパータール交響楽団同僚で和食に興味津々のベアントにこの話をしましたら、これを使え、と予備のAEG(アーエーゲ―)製電動スライサーを貸してくれました。また丁度時を同じくして、半凍結状態にして切ればきれいな薄切りができるという情報を得たのです。日本の肉屋でも、そうしているそうではありませんか。

 それ以来、2キロくらいの大きな塊肉を入手して、一度凍らせたあと溶けかかったところを、電動スライサーで切っています。

 ヴッパータール交響楽団を去る際に、同僚みんなが餞別にジーメンスの電動スライサーをプレゼントしてくれました。永年頑張ってくれた末にモーターが焼けまして、写真の電動スライサーは2代目、家庭用としてはモーターが最も強力なボッシュの上級品です。1回の作業に、合計5キロくらい切ります。ドイツ人に買われていたら普通にパンやチーズを切って平穏に働いていたであろうに、私なんかに買われてしまったがために、凍った生肉を唸りをあげて切らされて......。

 

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 豚バラ肉は別として、ドイツの肩肉やロース肉などは、日本の豚肉ほど脂身が多くありません。

 私が記憶している限り、ドイツに渡った1991年当時、鶏肉は肉屋ではなくて、別に鶏の専門店というのがあり、そこで猪、鹿、兎などのジビエと並んで売られていました。さもなければ、スーパーで一羽丸ごと冷凍(頭と内臓と羽毛を取ってある)が売られていて、そのまま塩胡椒して丸ごとオーブンでグリルする、というのがドイツの鶏肉の食べ方としましては、最も一般的でありましょう。鶏の種類が異なるのでしょうか、日本の鶏より小ぶりで癖のない味です。

 

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 今でこそ腿、胸肉、ささ身、手羽などの部位に分けられた鶏肉のパックがスーパーで売られるようになりましたが、それ以前は、日本人の大好物である鶏の唐揚げを作るために、冷凍の一羽丸ごとを解体するところから始めなければなりませんでした。そんなこと日本でしたことがありませんでしたので、最初は勇気が必要でしたが、お蔭で、ささ身がどこにあるのかなどもわかりました。

 ヨーロッパで日本の食生活を再現するために、うどんを小麦粉から打ったり、餃子の皮や果てはラーメンのスープも作ってしまう人もいますから、この程度のことはそんなに大したことではありません。しかしながら、このような段階から作り始める異国での和食は、味わいもひとしおです。

 余談ですが、ドイツのどこでも入手可能な、ロールキャベツなどの過熱調理やザウワークラウトに使う頑丈なキャベツをできる限り薄切りにして、せんキャベツに挑戦したことがあります。豚のしょうが焼きには欠かせないかと......。ところが、箸で持ち上げても全くしならないくらいバリバリに硬い上にとても辛く、もう2度としないと心に誓いました。最近になって、生食用のこんな「とんがりキャベツ」が出回るようになり、せんキャベツにもピッタリ、在独日本人に大人気です。

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PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。