ついの住処

家探しうたかた記

中村和恵

最終回是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺

 夏の最中に冬の句を掲げるめちゃくちゃも、炎天下を歩いて電車に乗ればすぐにひえびえと冷房が効いてきて、用事のある建物の中もたいがいは似たようなもの、そんな野暮の骨頂のような江戸ならぬ東京で暮らすものにはたいして気にならない、ご時世ってことだ、かき氷みたいで涼しかろうと、いまの子どものいいそうなことを臆面もなくいってすましてもいい。だがなんとなく申し訳ない気はする。そこらへんがわたしの日本語感覚らしい。

 信濃では五尺、1.5メートルほどですむらしい雪だが、わたしの育った札幌では冬中、一階の窓がてっぺんまですべて埋もれるほどに降り積もるのが常だった。ついの住処が雪五尺なら結構じゃありませんか、と連日の猛暑でへばり気味の鉢植えに如雨露で水をやりながらつぶやく。なべて住処は、これがまあ程度が頃合いなんじゃないかと思い始めている。一茶どのはどう思われるか。

 網走の、網走川の、網走橋の上で、駄菓子屋を営むおじさんがいる。モヨロ屋という名前の店で、看板には、だ菓子屋さん、と大きな字で書いてある。建物は車庫を利用した簡単なもの。吹きさらしで、強い風が吹いたら大丈夫かしらと心配になる。でも網走ってわりと雪もすくないし風もつよくないんですよ、と地元の人がいう。おじさんは3代目、最初にここで商売をしていた人はなんと70年も前に始めたそうで、おじさんのお母さんがそれを引き継ぎ、すでに40年あまり経つそうだ。

 網走という地名は「『ア・パ・シリ』(我らが見つけた土地)から出たとも、『アパ・シリ』(入り口の地)あるいは『チバ・シリ』(幣場のある島)などの諸説があって」と網走市のホームページに書いてある。いずれにせよアイヌ語に漢字をあてたものだ。この町の名は監獄のイメージが高倉健主役の映画で定着しているけれど、ほんとうの網走は不思議なところ、外と内をつなぐ、異なる民、異なる神が出会うところなのだということが、行ってみると感じられる。

 汽水湖のほとりを走るバスからの風景は霧につつまれ静かだった。2万年前からこの地には人が暮らしていたのだそうだ。ここでバスを降りてその頃の人々と動物に会いに行きたい、会いに行けるんじゃないか、なんて気がしてくる。カムチャツカやサハリン、シベリアからの厳しい北風は東に突き出た知床岬にまっすぐどかんと突き当たるが、その手前にぺこっと隠れたような具合の網走は、意外に穏やかな気候なのだ。海のもの、湖のもの、山のものが全部獲れる好立地だ。古来人が住み慣らしてきただけのことはある。

 5世紀頃からこのあたりには日本のほかの地域とはまるで違う、オホーツク文化というものがあったのだという。遺跡から出土した骨を調べたところ、シベリアの民ニヴフとDNAが近い民が暮らしていたらしい。おそらく流氷と同じ、アムール川からサハリンを経てオホーツク海へいたる水流に乗って南下してきたかれらは、沿岸で海獣などを獲ってアイヌとは一定の距離を保ちながら実に興味深い営みをつづけ、大きな石の熊頭像や不思議に精巧な海獣牙製の女性像などを残した。これらが展示されたちいさな博物館が網走にある。それがモヨロ貝塚館。その近くにある駄菓子屋だから、モヨロ屋というわけ。こんにちは。

 鈴カステラの平たいようなのにお砂糖をまぶして竹串に差したのが何本か、パンダの絵のついたビニール袋に入っている。それを指さしておじさんはいう。これはね、なかなか入荷しなくて、最近仕入れたばかりなの。フレッシュだからおいしい。その手前のはね、柿の種が入ったブラックサンダーの新製品。あ、こっちのはね、前より値段が10円下がったの。でも入ってる枚数は減ったんだよね。コンソメ味でおいしいけど。意外に最近人気なのがこの梅こんぶ。子どもがなんか好きらしいの。おもしろいよね。一番安いのはこのばら売りキャンディ。1個5円。うれしいよね、5円で買えるのって。

 うん、たかが駄菓子と侮るなかれだよね。新鮮なのは間違いなくおいしい。袋菓子だって製造年月日を見て新しいのを買ったら、味、違うよね。わたしはおじさんと意気投合し、たくさん買って、555円。すごい、ゾロ目だねとおじさんは喜び、はい、と広口瓶のばら売りキャンディをおまけしてくれる。何十年もこのちいさなガレージで5円10円のお菓子を商って、おじさんは目を輝かせ、生き生きと楽しんでいる。店では近くの福祉施設でつくられた工芸品も扱っていて、ときどき施設に出店したり、手伝ったりもするらしい。寝起きするおうちはまた別のところにあるんだろうけれど、なにしろもうずっとここで仕事をしている。不定休。開いていればやっている。


モヨロ屋.JPGのサムネール画像

モヨロ屋(田形一貴さん撮影「死までのカウントダウン日記!!! 」掲載

http://ameblo.jp/tagatakazuki/entry-11666695273.html

 森鷗外は知足について書くのに、なぜ高瀬舟の上に罪人を乗せたのだろうと、ひっかかる思いがずっとあった。足ることを知る穏やかな生を、なぜ犯罪に突き落としてから役人相手に振り返らせるようなことをするのだろう。もちろん、こんな難癖は読み手の思いこみを作家にぶつけているだけの、まったく手前勝手なものだ。高瀬舟の主題は知足であると同時に安楽死の是非であるのだし、もっと時代の政治に引きつけて読む解釈も昨今ではあるそうだし。でもね、やはりわたしは喜助がどうも気の毒で、腑に落ちない気持ちが消えないのだ。モヨロ屋さんに会って、そのわけがなんとなしにわかったような気がした。いつもなにかの物差しを当てられて力みかえっているような生き方とは違った、目の前のことにただ夢中になって日々を営む人の幸せは、心得ひとつで誰にでも可能なんじゃないか、知足はそれほど変わったことでも、無理な理想でもないんじゃないか。

 モヨロ屋さんから南下して知床岬のつけ根、ウナベツ岳の中腹にあるメーメーベーカリーに向かう。国道をひたすらまっすぐに進む。その道が左へ逸れても気にせず、まだまっすぐ進む。ほんとにこの道でいいのかなと不安になってきた頃、車を停めて振り返ると、そこが「天につづく道」といわれている理由がわかる。地球のまあるい輪郭がよくわかる彼方の地平に、高く登るその一本道は消えていくかのようだ。

 前に向き直り、ようやくぶつかったT字路を折れ、羊小屋のあるちいさな木造家屋の前に車を停めて、引き戸をがたぴしいわせて入る。でこぼこの土間の床を白猫のピコ店長が、なに用だという顔で迷惑そうにしししっと向こうへ歩いていく。すみません店長お邪魔します。薪ストーヴの炎に手をかざし、ガラス棚の中に並ぶ本日のパンを眺める。奥の台所には、やはり薪をくべる大きな土の竈があって、そこから流れてくる暖かい空気が部屋を満たしている。

 首都圏からこの地に移り住んできてパン屋さんを始めた人間店長の小和田さんに、周りの林での薪集め、パン焼き、雪かきとは実にお忙しいことでしょうというと、地元の方々がいろいろ協力してくれるんですよ、とおっしゃる。お礼にパンを差し上げるのだそうだ。パンで払うのね。モンゴルでは羊で払ったりもするそうね。

 一生をどう暮らすかということで思い悩み、妬み嫉み、たくらんで心穏やかならぬ人が多いことを、21世紀初めの東京という巨大都市で感じることが増えた。地方に行けば幸せだなどというつもりは毛頭ない。人が減り産業がつぶれ深い悩みを抱え苦しむ人の話のほうが、むしろ多く聞こえてくる。別の国に行けばまた別の悩みがある。でもね、違ったやり方というのはいつも、自分の手先、足元にあるらしい。通りかかった橋の上の駄菓子屋さんにそのことを教わり、連れていかれたパン屋さんでまたそのことを考えた。最後は死ぬだけのことだもの、そこまでの仮の宿、きっと思い煩うより試していけばよいだけのことなのね。

 いまの家が結局、一番長く住んでいる家になった。たいした家じゃない。築30年近い古家だ。建材も米松で、大工の弟にいわせれば、在来工法のちゃんとした日本家屋には使えない、こんな木もちゃあしねえだろうがと棟梁に怒鳴られるガラクタの類である。その上ごくごく、ちいさい。

 でも身の丈に合っていて、風がよく抜けるので、ここを巣に暮らしている。

 動物は飼っていない。よその家の猫が、わたしの机の前の窓を横切るブロック塀をしょっちゅう渡っていく。ベランダの鉢植えに差したガラスのじょうご型ろうそく立てに雨水が溜まり、向かいのお屋敷の大木に住むスズメ、メジロ、ヒヨドリ、ハクセキレイなどが、ときどき水を飲みにきて、あれば花の蜜など吸い、ちょっと噂話をして、飛び去る。

 鉢植えの南高梅は律儀に年にひとつ、無花果はもっといっぱい実をつけるが、間引いて2つほどにして、ようやくちいさく甘くなる。春には紫蘇とミニトマトの苗などが加わる。以前は綿花のプランターもあったけれど、綿栽培はいまはお休み、綿の種も休眠中。

 庭はなくて、家のぐるりにはやっと歩けるほどの地面しかない。北西に楓、南東にオリーヴが、壁にはりつくように立っている。鉢植えから盆栽への格上げは永遠にありそうにないマヌケな枝ぶりの枇杷3鉢と、アロエの群生が、玄関の植えこみ代わりに並んでいる。枇杷は連れが食べたあとの種を植えたらいつの間にか大きくなってしまったのを三十余年も抱えている。アロエは道端に捨てられていたのをわたしが拾ってきて余った鉢につっこんだのだが、増えに増えて巨大化し、そのうち家より大きくなりそうな気配。

 二面の窓があって案外広い屋根裏部屋では、ことば数のすくない長年の連れ合いが、今日も黙ってパソコンで表や画をつくる仕事をしている。連れの仕事についてわたしに理解できるのはその程度。ひとが二人いれば、すべて自分勝手にはどうしたっていかない、面倒はつきもの。屋根裏と一階に分かれてそれぞれ机に向かい、二階で一緒にごはんを食べるわけだが、わたしはだんだんと階段に本を置き紙を置き二階まで仕事の余波をひろげてぐちゃぐちゃにし、テリトリーを争い、行儀がわるい、ことばが不正確、文句ばかりいう、なんだとう、と喧嘩をして、仲直りして、お掃除をして、またごはんを食べる。連れはごはんをつくるのがうまい。怒って家から出ていったとしても、夕ごはんまでには戻ってきてしまう。

 穏やかな日ばかりではないけれど、このようにつづけていければ、と思っていた。でもそうはいかないのかもしれないと、東北の大震災を機に、考えることが増えた。なにごとにも変化があり、終わりがある。世のざわめきや轟音もあれば、ひとりひとりの身の最後というものもある。住まいのことを考えるということは、どう暮らすか考えることでもあるわけだけれど、そのお終いには、どう死ぬかという問いが待っている。とても、むずかしいような、簡単なような。歳により、日により、ふと不安になったり、怖くなったり、なんでもないことのように思えたり。

 そんなこと考えてもどうにもならない、なるようにしかならない。でも多くの人はどうにかしようとあくせくする。貯金とか家財とか相続とか介護のことでさまざまに悩む。自分の生、ひいては自分の死を、できるだけよいようにとり計らおうとする。コントロールしようとする。

 そうやって自分の生をコントロールしているのは、ほんとうに自分なんだろうか。高度成長期の亡霊であったり、親子代々という夢であったり、安心という妄想であったりしないだろうか。誰かに吹きこまれた幸福の幻影に、コントロールされているんじゃないか。そのようでなく、生から死への変化を自分で、素手で触って確かめていくような、そんなやり方は誰に倣ったらいいものか。

 ふと考えて、毎年ゼミにくる学生たちに手始めにやってもらうブックレポートの対象本に、深沢七郎『楢山節考』をこっそり、入れてみた。これを選んだ学生がいて、すごいショックでした、という。うん、そうね、でもね、どうかしらね。

 もうおしまい、と自分にけりをつけ怖がらないおりんは、子どもの頃のわたしにも謎の、神のような人に思えた。いまはずっと身近に、好ましい人のように思う。これほどの行動が自分にできるとは、すくなくともまだ到底考えられはしないけれど。

 おうちの話を書くんならこのことをぜひ、と思ったまま書かずじまいになった幸田文の、父・露伴による掃除指南の話がやはり気になって(本にするときには入れたいと思う)、新潮文庫『父・こんなこと』を開いてみて、またおりんのことを考えた。この一冊、掃除のお話の前に介護の話がある。万事露伴先生の気に入るように、「すらりとしたやりかたで」完璧にと倒れんばかりに頑張る様子に、ああ文さん力み過ぎ、と思わずいってしまう。すらりとはいかなくてよろしいんじゃないですか。介護に子育て、生きること死ぬこと、完璧なんてありえない、なにが完璧かもわからない、誰にも。

 おりんの選択は、老いたものは不要、自分で自分の面倒をみられないものは生きていなくていい、といって老人や障害者を殺した若者のそれとは、まったく違う。おりんは自分で選んだのだ。日々の仕事の手触りから、自分にできることできないこと、自分の生の終わるときを自分で計って。誰もかれもがおりんのようであれなんてことをいってはいけない、それはまた新たな吹きこみ、誰かのコントロールに従うことになってしまう。ひとりで、お上や世間はおろか息子にも左右されず、おりんは選んだ。あるいはその結論が、最後まで食い意地をはり通し生きながらえようともがくことであったとしても、それもまたその人なりのお終いであれば、おそらく本人にはそれでいいのだ。自分の死に関しては無策が最上の策なのかもしれない。悲惨だの孤独だのは他人の勝手な感情移入であって、本人が最期に見た夢が甘美でないとは誰にもいえない。

 ついの住処のお終いにはお墓のことを書こうと考えて、こういう話になった。風葬、鳥葬、土葬、火葬、水葬といろいろあるが、いずれもちりからちりへ戻っていくまでのこと、それに立派なお棺や墓石、高額の墓地や供養代などを持ちこむのは、生きている側が死をなかなか受け入れられないからだ。死はわからない。ついの住処はわたしにとって墓のことではなく、生きている間の住まいのこと、仮の宿でのお終いのことで、だからやっぱりたいがいというのが頃合いだと思うのである。


天に続く道 北海道感動の瞬間(とき)100選.JPG

知床斜里の天に続く道(「北海道感動の瞬間(とき)100選」掲載 http://kandonotoki.jp/

 

今月の大家さん

もともと土地は誰のものかと考えれば、先住民族こそ大家さんともいえる。さらに土地ごとの動物や虫にも先住権があると考えることもできる。最近日本各地で熊との遭遇事故が増えているという。山が切り崩され食べ物が減り、熊の生態や数を熟知した狩人も減った結果だ。熊にしてみればヒトのほうこそ盗人猛々しい、お家賃いただきますとでもいいたいところかもしれない。メーメーベーカリーで撃ちとられたばかりの暴れ熊のローストをいただいた。あっさりとした赤身でうまかった。