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ついの住処

家探しうたかた記

中村和恵

第11回リフォームからの解脱

 解答の見出されない問題というものが人の世には存在する。小学五年生のとき、生存の意義を考えつづけて円形禿げを後頭部にこしらえたわたしは、ひとは禿げるまで考えるべきではないという結論に至った。あらゆる問題は、解決しないとなれば、解消することができる。つまり問題をどうこうするのではなく、問題から解脱するのである。問題を問題でないと見なす視点を獲得すべきなのだ。対象化すべきはおのれ自身であり、問題ではない。そもそも問題などというものが、存在しているのか、そのことを徹底的に疑うべきなのだ。リフォームというインフェルノにおいてもまったくこれはしかり、なのである。

 といった具合に今回は、町田康『リフォームの爆発』(幻冬舎 2016)を参照/讃頌しつつ、リフォーム・インフェルノについて、爆発について、さらにはてめえの住処なんてもんについて語ることそのものについて、考察を深めていくこととする。この本を読みながらわたしは京王線の中でぷっぷっぷっぷっとおならをするように笑いつづけた。最後には、こいつうざい、非常に気に障るというオーラを発しておられる周囲の方々にも本の表題がご覧いただけるように、掲げ持って読んだ。

 わたしは町田康氏の文体がファンダメンタルに好きだ。大変好きなところと乗れないところとがまだらに繰り返されるために時々つっかえながらも機会あれば読み、根本のところで両手を挙げて賛同・賞賛しつづけている。とくに寿ぐべきはその文体の自在な変化、スタイルのアップダウン右往左往、読みやすさなんてものは棚の上にしょっちゅう上げて(すっかり忘れてしまうつもりじゃないにせよとりあえず上げて)敢行されることばの、いやもうただことばだけの、ダンスであり、パーカッションであり、鼻歌であり、宣伝カーであり、憑依神がかりイタコ語りであり、ようするにパフォーマンスである。

 しかるに、そうした書き手たちの挑戦を嫌って、全部自分にわかるように書き話せ、吾輩がわからないことは世界に存在すべきでない、と騒ぎ立て各方面のクレーム担当に電話をかけるような方々が最近増えているらしい。ビタミンBの不足が疑われる。豚肉などで補われたのち、休養して本、ネット、TV、電話など気に障るもの全般を避けられたがよろしい。

 で、不動産屋勤務もそろそろ十年にならんというのにどうもいま一つ押し出しの弱い、いつもマンガの登場人物みたいに顔に縦線の影が落ちているハイバラ君(仮称)は、わけあり通りの極小サイズ・みなし道路に面す・駐車場無理っす物件を、リフォームなしで半額にしろというわたしの非道な要求に、屈した。いや全面的にではないが、かなり譲歩した。一層顔を青くして、とうとう返済可能なローンに若干の錬金術を加味することで入手可能な金額を提示してきたのである。別の購入希望者の古家ぶっ壊し+駐車スペースつき三階建て建造計画は思ったとおりうたかたの夢と消えたらしく、さらに売主はさっさと売ってこの家を現象化したい、すなわち現金に換えたい事情がおありだったとみえる。おおお。言ってみるもんだ。今後はなんでもまず半額に値切ってみることにしようと思った。こうしてこの中古の注文住宅はわたしの手に落ちた。35年ローンでな。考えようによってはバカだな。なにがどう安いんだ。だってなにしろ、ここでリフォームの問題が浮上するわけなのである。

 瑕疵担保(かしたんぽ)責任、というものがある。家を買ってみたものの、雨漏りする屋根だったとか、歩いたら床が抜けたとか、一見大丈夫そうだったのに隠れた瑕疵が見つかったとき、買い主は売り主に損害賠償を求めることができる。つまりこの屋根ひどい、直して! といって直してもらえるということだ。中古住宅の場合はとくに、売買契約書に書かれたこの瑕疵担保責任の期間が重要になる。とんでもないことが見つかっても賠償期間を過ぎてしまっていれば自腹で直さなくてはならない。責任を免除する、とか、1か月以内とする、なんてときは、買う前にびしばしチェックしないといけない。売ったあとはどうなろうと知らんといわれているわけですからね。

 大がかりなリフォームを全部やめることにして、あらためて当該物件を点検すると、気になることがいくつもある。まず廊下の床材が一部ずれてめくれている。廊下を中心に壁に汚損がみられる。一部屋だけある和室の畳もとり替えないでは使えない。トイレが汚く、下水管と便器の接続が気になる。一階の壁上部に水染みの跡があり、上のベランダからの水漏れが懸念される。等々。ハイバラ君にこれらをちゃんと直してくれるよう申し入れる。瑕疵担保責任内でのリフォームであるから支払うのはハイバラ君の勤務する不動産会社である。つまりわたしの懐は一切痛まない。どしどし注文をつけてやってもらうべし。最初はそう考えた。

 しかしわたしは途中で、どしどし、を中断した。またしても折り込みチラシのテキスト・クリティークに没頭し、すれっからしのポン引きみたいなぴかぴかのカラーちらしや、安い! 安い! 安い! としか叫ばない九官鳥のような卑しい赤字ポップだらけの宣伝をかき分け、真面目な住宅改善の理想の火がまだ胸に消え残っている気配を漂わせる初心なリフォーム業者を探し出し、彼の長い、長い、長あああい説明と解説と自賛と夢と希望をすべて笑顔で聴いて、なにしろまともな仕事をしてくれるよう祈った。なぜか。それはハイバラ君のカイシャが送りこんできたリフォーム業者が、やる気なしプライドなし技術なしのインフェルノだったからである。というか、おそらく入りたてのなんも知らんボーズを練習のために、ないしはイビリのために、寄こしたとしか思われんからである。

 ボーズめ。くそボーズめ。わたしは悪いことは大概さっさと忘れてしまう鳥あたまである。この三歩で忘れる鳥あたまというのは悦子(母)がわたしを罵るのに用いた数ある常套句のひとつだが、いま考えるにむしろ鳥に失礼だ。シマフクロウだのコンゴウインコだの、わたしより記憶力も知性も高そうな鳥はたくさんいる。あのボーズがやらかしたことの大概は忘れた。しかし彼がすべての仕事を終えて帰ったはずの廊下に、細かいマチ針みたいな釘が一片の床板の端に沿ってきれいに、板を取り囲むように刺さっていたのを発見したときの不可思議な心持ちは忘れようがない。これはなにかのインスタレーション? コンセプチュアル・アート? 包囲すなわち境界の断絶? いやこれは廊下だろう。この上を渡ってわたしはお手洗いに、お風呂に、お洗濯に向かう、その廊下に、マチ針釘の列。あるいは呪いか? わたしに預言者となりこの上を渡ってみせよと?

 ボーズがほかになにをやらかしたか、考える気にもなれない。だがボーズが二階の畳もはがしたことは覚えている。そしてわたしのリクエストしたように床板を新たに張った。張れっていうんだから張るわ、というように張った。ぺかぺかの合板を張った。その際ボーズがあきらかに根太をひとつ外したか忘れたかしたために、合板床の一部は現在もふがふがと浮いている。これを直せと怒る気力がすでにわたしにはなかったことを、そのふがふがが、物語っている。

 わたしはボーズを雇っている工務店に電話した。ボーズは悪びれもせずやってきてマチ針を抜いた。その様子は「てめえで抜けばいいんじゃね」と訳すほかないものだった。わたしはパッセからデヴェロッペへと片脚を展開するにあたって90度を維持することさえできないへたれである(くわしくは『SWAN MAGAZINE』連載の拙文「いつも目に☆」をご参照ください)ので、ハイキックの角度が確実に習得されるまではボーズへの攻撃はあきらめようと自分に言い聞かせた。

 そんなわたしが『リフォームの爆発』を手にしたとき、当然こちらのお宅ではいかなる最低最悪が展開されるのかと胸躍らせていたのである。よそさまのリフォームの爆発の細部を知り、あのボーズに代表される「おれの知ったことかよ」的リフォーム業者の悪しき心根をトレースし、怒りを新たにしてへたれデヴェロッペを1ミリでも高くする原動力を得ようという、省みればさもしい気持ちにとりつかれていたのだ。でも、まあそりゃ大工さんに「ゲラゲラ笑いながらスチャスチャ帰ってい」かれたり、脅かされてるような気になったり、「永久リフォーム論」の虜になったり、いろいろあるにはあるけれど、町田さま方のリフォームはどうやら、素敵にうまくいっちゃったようなのである。なにい、冬暖かく夏はうまく日射しを避ける天窓だと。南面の大きな掃き出し窓だと。ウッドテラスだと。床暖房だとう。うらやましいなあ。いいなあ。そんな家に、つぎに生まれ変わったら住んでみたい。町田家の猫になってみたい。いや庭のでんでん虫でもいい。失敗といえばこわもての設備屋さんに洗面台を高めにとりつけてほしい、といったために異常に高い位置にとりつけられてしまった、というぐらいで、うまくいっとるやないの、に感じられる。ちぇっ。なんだ。まともな業者やんか。爆発してへんやん。むしろパンパカパーンやん。申し訳ありません、三年半関西に留学し大阪市天王寺区細工谷近辺に居住した経験のあるわたしは、関西ニュアンスの文体に触れるとすぐに偽関西弁が出て醤油くさいうどんが食べられないという、アレルギー体質になってしまったんです。

 ところで、わたしの弟は大工さんである。某早稲田大学の英文科を五年かけて卒業し(五年目はフランス語と七限トランポリンだけという優雅な履修状況であった)、おれの吹くファンクな尺八(いやこれは冗談ではなく本当に子どもの頃から隣家の師匠に習っていたのだ)でセカイを変革するぜアネキ(こっちは冗談であったとおもいたい)、といっていた彼は、紆余曲折を経て宮大工に弟子入りし、ノコギリひとつでいちから家を建てられる立派な大工になって工務店を開いた。彼いわく、家なんてもんはぶっ壊せばようするに木である。いくらでもどうとでもなるもんである。拘泥しているやつはあほうである。彼の長い、長い、長あああい講釈をわたしなりに曲解してパラフレーズするに、ボーズのような見習いは誰にもなんにもろくに教えてもらってないんである、シュールレアールにへたくそで当然である。そしてそういうボーズがわたしのような家に派遣されるのもまた当然である。ボーズが雇われている工務店は、ハイバラ君が雇われている不動産会社に、ピンをはねられ、使い回されているのである。たいした儲けもない仕事に腕のある職人を寄こすわけがない。職人の工賃を惜しんだらリフォームは崩壊必定。職人を見下す家に呪いあれ。正直わたしよりよほど文学的に育った弟に、大工さんあんた字書けるの、なんていうお施主さまは、それ相応なリフォームになっちゃっても、うなだれるほかないのだ。わはははは。いえ実際は、彼はどんな方にでも最良のサービスをする男であります。真面目が過ぎるほどなのであります。この連載の第4回目で書きましたが、わたしが政子時代に階段落としで彼のあたまをかち割ったせいで(正確には違います)心が優しくなりすぎたのかもしれないわね。結果優れた職人に育ったので、わたしももう隠れたりする必要はなく、胸を張ってあの一件を明らかにしたわけである。

 ボーズのこさえた現代アートに根源的な疑問を抱き、結局自腹で別の業者を頼んで必要最低限のリフォームをやりとげたわたしには、住宅ローンとはまた別の借金ができていた。町田康氏もいっておられる。「リフォームの費用は必ず、予算額を上回るのである。」わざわざ町田氏を持ち出すまでもない真実である。貯金もできない外道市民が住宅ローン(35年)なんか組むとどうなるか。借金ずれがするというか、ひゃくまんにひゃくまん増えたかて変わらへんわ、どうせ死ぬまでに返せるかどうかわからへんやん、といった開き直り、妙な気の大きくなりかたをしでかしてしまうのである。ひゃくとにひゃくの差もようわからん猫あたまである、死んでも治らへん、永久リフォーム論なのである。

『リフォームの爆発』の巻末近くで、町田康氏はこう振り返る。「さあ、そんなことで私は私方のリフォームについて長いこと語ってきた。というか、語りすぎた。いままで生きてきてこんなに語ったことは少ないのではないだろうか。」なぜかくも語ってしまったのか、と自問する氏はこのような述懐を漏らされる。「それは私のなかに素敵な生活に対する激しい憧れがあったからだろう。」素敵な生活とはなにか。もちろん町田氏はこれに対し、きわめて明確な例示をもって答えておられる。本書212頁を開くべし。いわく「冬の寒い日。特に雪の降る日など、ガス温水式床暖房を作動させ、床にべったりと座ってスコッチウイスキーを水で薄め、モーパッサンという人が書いた小説を読んだり、やくざ映画を観たりするのはこのうえなく楽しいものだ。」まさに。まさに。わたしも床暖房つけたい。やくざ映画観たい。リフォームしたい。

 うつけものめ、ものは壊れてから直すのだ、としかし、我が家の仙人、ゼロ様はいうのである。使えるものをゴミにする必要はない、と。チリ紙も一度で捨てはしない始末なお育ちですからねえ。素敵な生活の夢から醒めよ。リフォームから解脱せよ。かたちあるものはきっと壊れる。壊れるまでそのままでよいのだ。あるものはただある、塵から塵へ。かくしてゼロ様のお部屋はきれいなんだかきたないんだか、わたしの目には不思議としかいいようのない雑然とした解脱空間となっている。触らぬなんとかにかんとかである。

 実際給料とりの分際では、モオパッサンといつまでも素敵に床でごろごろしてられるわけがない、すぐにお掃除お片づけと日常の用が、ガス代電気代税金健康保険が、押し寄せてくる。素敵な生活ってのはいつだって憧れ、まぼろし、正道外道を問わず小市民の生活ってのは、地を這う一歩一歩。というわけで次回はわたしが激しく憧れつづけるミニマルで素敵な生活、ホームレス一歩手前の安アパート隠遁生活を妄想したい。まあ、いまもごくちいさな家で、その延長で暮しているわけですし。

サモアの女性.jpg

サモアの市場で芋を売る女性。こんな人の家の居候になりたい、と思った。
きっとお腹いっぱい食べさせてくれるんじゃないかな。

今月の大家さん

わたしが大家の文学的価値に目覚めたのには、RCサクセション「恐るべきジェネレーションの違い(Oh, Ya!)」(忌野清志郎作詞、1982)の歌詞も関与していると思う。「アパートの大家ときたら」というリフレインが印象的だった。実際に出会った大家の中で一番のいけずは、大阪・堂ヶ芝の新築マンション大家かな。貸したくないといわれた。それをあえて貸せといって住んだわたしも相当のいけず店子や。「この辺の接点は無いのか」って、ないね。ほぼ、ない。