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ついの住処

家探しうたかた記

中村和恵

第7回閨房に関する率直な話

 この地球になぜか生を得て、ひとの世にまぎれて暮らし、半世紀が経った。寿ぐべきことなのかどうかは、わからない。自分がひとではなくヨウカイだ、と10年ほど前に悟りを開き、などと書くと近頃のお若い方は字義通りにとって「えっコノヒトやばいんじゃない」などというのでたちがわるいんだが、つまるところ自分なりにしか生きられないんだから、もうよそさまに合わせてみなさんのひとりとして勘定していただこうという努力(conformity ってやつね)はたいがいやめることにして、まだこうして存外のんきに生きている。

 こういうほのかにじじむさい文体というのも「くせがあってわかりにくい、へたくそ」なんてぬかすお方がいて(おもしろいことに年齢よりもなにを読んできたかで反応が分かれるのだが)、親が古本屋で購入した20世紀前半の旧かな旧漢字の本を読んで育ったヨウカイには、ますますやりにくい。だからといって無理して色も味もないモソモソしたわかりやすさを目指す義理も動機もない。なにしろ申し上げたいのは、たった1200年ほど前ならばわたしはもう尼そぎ染衣で出家得度していた齢なのだから、これから先は余生とみなすこととしたい、そういうことである。

 もちろん昨今の世知辛さときたら勝手に野山を占拠して逃亡奴隷化したいと夢見るほどで(これもついの住処の理想の一形態であります)、よぼよぼになっても働いて税金その他のみかじめ料をきっちり納めなくては一汁一菜にもありつきがたいという始末、余生はあくまで筆の上、前頭葉の描くはかなきユートピアなのだが、こころもちだけでも解き放ってやらなくては、老い先短い身がもたぬ。というわけでここから先はごく率直にまいります。閨房(けいぼう)、ベッドルームの話ですから。幼少時より尼将軍のあだ名を頂戴(第4回参照)していた面目を施すべく、ぽよよんとした愛の巣の嘘八百イメージに、ざくざく薙刀をふるってまいりたく存じます。

 前回、いまの日本の間取りのほとんどは51型公団住宅モデルのたれ流し派生形であるnLDK、ただし核家族の構成人数()から母親()を引いた、母に個室があたらない(LDKである、という間取り分析をいたしました。

 ところが、ごく最近とてもよく似た間取りを、驚いたことに「新しい理想の間取り」として提案したお若い方がいらしたそうなんですよ。まあびっくり。

 家探しを専門に扱う情報サイト「Yahoo! 不動産 おうちマガジン」にある大学の不動産学部学生によるコラムがあり、その第2回として掲載された「家族が仲良く暮らせる間取りとは何か?」の母親の扱いがひどい、とTwitter などで騒ぎになったそうです。このコラムは削除されもう見ることができないのですが、これに関するコメント記事が載ったサイトのURLを教えてもらいましたhttp://buzzap.jp/news/20160309-madori-realestate-yahoo/

 それによると、家族での会話がなくなった経験から、家族が常に顔を合わせる環境が必要だと考えたコラム筆者の学生が、「リビングにだれもいないとなると、結局はだれとも会わないため、強いて母の部屋を作らずにリビングにいてもらいます(寝るときも)」と提案し、母親は個室を持たず、リビングのソファで常に寝起きするという間取り図を描いたらしい。ひどい! お母さんをなんだとおもっているんだ! 母親が人間扱いされていない! という憤慨の声が集まったようです。

 でも、これ(LDK における「主寝室」を「父の部屋」に読み替えれば、ごくあたりまえの間取りですよね。いまさら驚くほどのことでしょうか。母がソファでなくベッドないし布団に寝るべきだ、という批判はもちろんわかる。賛成だ。でも母に個室がない(LDKは、数多くの不動産ちらしを見る限り、いまの日本の住宅ではまったく普通ですよね。むしろこの学生の発想について驚くべきなのは「てゆーか、これどこも新しくないでしょ」という点ではないでしょうか。おそらくこの家族の場合、平日の日中は母しかいないし、夜や休日の日中は実際母は公共空間で労働してるのでは。

 じつはみなさんがどういうわけかあまり明確に追及しない最大の問題は、「新婚でもないのにずっと主寝室で夫と一緒に寝るのってどうなの?」という点ではないのだろうか。ソファはいやだけどソファベッドなら、そしてなんなら妻ではなく夫が、いやどっちでもいいけど帰宅が遅いほうがソファベッドないし居間の隅にお布団出して寝るってことにしたら、むしろ一緒に寝るより快適だわ、って夫婦はいないんでしょうか。もちろん余ってるベッドルームがたくさんあるような邸宅は別ですけれど、狭い家なら、ねえ、どう? 絶対手、あがるよね。

 前回参照した『「51」家族を容れるハコの戦後と現在』(平凡社、2004年)の、上野千鶴子論文「性の絆からケアの絆へ」には、このようなことが書いてある。「近代家族において「家族する」ための条件は、夫婦がいること。だが「夫婦である」ことと「夫婦してること」とは違う。では「夫婦している」とはどういうことなのであろうか。それは、現実はともかく、タテマエのうえではセックスをしていること、少なくともそのふりをしていることである」。で、タテマエはともかく、現実はどうなのか、という疑問が当然、生じます。

 家の第一の機能、それは寝室だろう。家でひとは寝る。そして生殖する。そうしたとき、ひとは無防備だ。できれば雨風をしのげ、襲撃されにくいところがいい。農業を始めて人口が増えれば自然の洞窟や木の下じゃ間に合わないから家を建てよう、となる。

 戦前の農家では家長夫婦が座敷で寝て、あとは納戸で雑魚寝、というのが一般的であったと上野氏はいう。となるとセックスもオープンで、家長夫婦の枕もとを通って目指す娘のところまで行く。だれとだれができているかはみんな知っていて、「時が至れば、露見(ところあらわし)をする」、それは「平安時代の通い婚と似ている」。なるほど。合理的だとわたしはおもいます。そうおもわない? 恥ずかしい? 行儀悪い? それって実はわりと最近の感覚かもよ。

 核家族化とセックスのクローゼット化は、間違いなく連動していますよね。上野氏が1988年に行った「寝方調査」では、夫婦別室で寝ている人は14パーセント、一番多かったのは夫婦と子どもが川の字に一緒に寝るスタイル、つまりやっぱり雑魚寝。夫婦は子どもをまたいでセックスすることになる。これ、日本的だなあとわたしは感じる。ヨコの家族よりタテの家族が重視され、親はパートナーより子どもと一心同体化したがる。おもしろいことに、洋風化が進みベッドで寝るひとが増えても、ダブルベッドの普及率は当時非常に低く、夫婦は同室でもツインに寝ていることが多かったという。「同室異床」だ。

「寝方調査」は「夫婦している」ふりというタテマエを暴いてしまうので、聞きにくいと上野氏はいう。「鈴木成文の調査では夫婦別室はひろく行なわれていたということだが、彼が調査した四〇年代までは、夫婦の寝方をあからさまに尋ねたり、答えたりしてもよかったのかもしれない。しかし、六〇年代に入り、近代家族の大衆化を経て、性の絆が家族の中心になって以降は、夫婦別室であることを公言することがはばかられる雰囲気が出てきたように思う。」だとすればやはり、わりと最近の感覚なんですよ、日本のセックスがクローゼット化して夫婦の秘密になったのは。夫婦がセックスしてる、ってことも、してない、ってことも秘密、はずかしいってことになってるよね、今。やりたいのかやりたくないのか、よくわからんことになっている。

 まずここで考えるべきなのは、一体世間にはばからぬ立派な核家族の夫婦にとって、セックスってなんなのか、という問題だろう。紙幅が限られているので詳細な検証を略し、ひとつ例をあげて率直な話、こんなことじゃないかという推論をはばからず申し上げます。

 某お嬢さん学校出身で、一時彼女にとってのゴールデン・コース(すなわち卒業→腰掛け就職→お見合いないし親が納得のいく方とのおつきあい→結婚、出産→幼児教育・受験準備に忙しいママ→ちょっと余裕ができてお金には困らないから趣味をみなさんと分かち合ううちに能力がありすぎて仕事になってしまったセレブママ)から外れてしまった千恵子さん(仮称)から、こんな話を聞いて仰天したことがある。

 「わたしの同級生たちにとってセックスって、夫がどうしても望むから仕方なくするものなんですよ。すくなくとも、そういうことにしておかなきゃならないんですよ、いい妻っていうのはそういうものでしょ」。ええっ! やりたいからするんじゃないの? どうして自分の連れ合いにまで演技しなきゃならないの? わたしには俄かに信じがたかった。彼女のほうはわたしが、一度もお見合いというものをしたことがないし、する気を抱いたこともない、という話が信じがたかったらしい。わたしたちはまるで大奥の腰元と狩猟民族の女がお互いを不思議がるように不思議がったのだった。異文化接触だなあ!

 さらに率直に申し上げます。一夫一婦制には合理性がたしかにある。これだけくそ忙しく煩雑で各方面からお尻に火がついてきたやばい現代の人間社会において、複数の連れ合いの福利厚生を充実させ愛情欲求に光源氏みたいに応えていけるのは、総人口の1パーセントにも満たないほどの経済的特権階級の中の、特殊なまめ男・まめ女だけでしょう。たったひとりと結婚して相手に合わせて生活するだけでもめんどくさいというひとが増えているほどです。しかしそうした中でも、ことセックスは別の話だとおもっておられる方はけっしてすくなくないのではないでしょうか。

 漫画家の蛭子能収氏の発言として、たしか彼の作品集の解説にどなたかが引用されていたことばがありました。衝撃的でしたので、肝心の作品集のタイトルは忘れてしまったのに、その発言ははっきり覚えています。「うちはただですよ」。だから風俗にいく必要はない、と蛭子氏はおっしゃったそうです。うーん......「ただ」だからといって結婚以来ずっと同じ連れ合いと死ぬまでセックスしたいというひとが、やはり少数派だという事実を照射するがゆえに、これは衝撃的な発言なのだとおもいます(セックスワークの是非についてはここでは棚上げしますが)。女性は妊娠のリスクもありますし、男性ほどセックスしたいからすぐお金払ってでもしにいくというひとはそれほど多くはないように推察いたしますが、だとしても一生ひとりの方としかしたくない、というお若い女性は、やっぱりどちらかというと少数派じゃないかしら、と北条政子(自認)はおもうのであります。間違ってたらごめんなさい。あなたはどうですか。

 で、閨房はいかにしたらよいのか。それこそひとそれぞれ勝手にしたらいいはずなんですが、なかなかそうもいかないらしい。家族がクローゼット化すればするほど、理想の家族像への迎合性が高まるという、奇妙でおもしろい現象がたしかに存在する。つまりその家族像、妄想だってことでしょう。今日もどこかの「夫婦寝室」で演技中の若い妻がいると考えると、まあそれもその方の人生の選択ですからよそものがどうこういうことじゃありませんが、やりたくなかったらやらなくてもいいんじゃない、やりたいんだったらやったら、とはっきりいう政子が1ダースぐらいいたほうが、長い目でみればお国のためにもなる気がするんですが、どうでしょう。すくなくともお気持ちがせいせいして、明るいお顔になるんじゃないかとおもうのですが。

 閨房をどうするか、は間取りをどうするか、誰とどのように住まうか、という大問題であります。ここでわたしはnLDKないし(LDKに替わるモデルとして、0.5nLDKというモデルを提案したい。なんじゃそりゃ。つづきはまた今度。


7回図版2.JPGのサムネール画像
マルティニークの邸宅の屋根裏からのぞく大西洋


今月の大家さん

カリブ海・仏領マルティニークで、植民地時代の大農園に築かれた邸宅を改造したホテルの屋根裏を借りた。首都フォール=ド=フランスの図書館や本屋さんを巡り、帰ってきて部屋のドアを開けたら、夕食時にはいつも女優みたいにすましてる大家夫人が、ざんばら髪でクローゼットを開けてわたしの荷物を検分していた。毛布を出してあげようとおもって、といって出ていったが、35度超えの熱帯で毛布って、ねえ。北隣のドミニカ島出身の作家ジーン・リースの小説に出てくる嘘つき大家夫人たちを思い出してしまったわ。